有川ひろ クロエとオオエ 特典ショートストーリー

※本編のネタバレがありますので
本編読了後に閲覧してください。

昨日の夕方からちょっと怪しい気配はしていた。

朝の通勤電車の中で明らかに風邪っぴきのおっさんの差し向かいにラッシュで詰まってしまい、おっさんがマスクをしていなかったので咳やくしゃみをまともに浴びた。

マスクをした上で接客にはあまり立たずにバックヤードで事務に専念したが、退勤後にじわりじわりと悪寒が忍び寄ってきた。

気のせいだ気のせいだと言い聞かせながら栄養ドリンクを飲んで早めに布団に入り、祈るような気持ちで朝を迎えたのだが、起きると無慈悲に発熱していた。せっかくの休日が台無しだ。

昼までに奇跡のように下がらないかな、などといじましくうだうだしていたが、向こうも急にキャンセルされたら困るだろう。

観念してメッセージを送る。宛先はクロエだ。


『ごめん、熱出た。今日はナシで』


クロエとデートの約束だった。ランチはいくらローストビーフ丼が有名な行列のできる店。

いくらとローストビーフは別々に食べたほうがおいしいのではないかという頼任(よりとう)と、おいしいものとおいしいものを足したら倍美味しくなるはずだというクロエで意見が分かれ、それならばと実地で検証に行くことになっていた。


『大丈夫? 何℃?』
『37.8℃』
『あー、頼任にしちゃけっこう出てるね』


頼任の平熱が低いこともすっかり把握されている。


『なんか買って持ってく?』


気持ちはありがたいが、昨今は熱が出ただけでも面倒な感染症じゃないかどうかの検査が要る。万が一クロエに伝染(うつ)したら悪いので丁重に辞退。


『ごめん、ドタキャンで』
『病気なんだから気にしない。検証は一人で行ってくるわ』


行くのは行くんだ、とちょっとがっくり。一緒に出かける口実が一つ減った。


『おいしかったらまた一緒に行こ』


リピートに当然のように自分を加えてくれていることが素直に嬉しい。

ぜひぜひ、とかわいいネコチャンのイラストスタンプを送り、そのままことんと眠りに落ちた。


翌日、検査キットの結果は陰性で、単におっさんの季節性の風邪をもらっただけだったらしい。

まだ微熱は残っていたので店は引き続き病欠にしてもらい、家にあるもので適当に過ごした。割と用意周到な性格なので、いざというときの冷凍うどんやレトルト(がゆ)は常備している。

ただ、飲み物はお茶と水しか置いていなかったので、自販機までスポーツドリンクでも買いに行こうかなどと思っていた昼下がりである。

インターフォンが鳴ったので出ると、モニターにはマスク顔のクロエが現れた。
『店行ったら今日も休みだっていうから寄ってみた。ごはんとか食べてるかなって思って』

差し入れに寄ってくれたらしい。

昨日の外出が飛んだところへ嬉しいお見舞いイベントの発生である。しんどかったらお見舞いだけ置いて帰るというクロエに、熱はだいぶ下がったからと駄々を()ねて上がってもらった。
「へえー、けっこう部屋荒れてないね」
「昨日の今日でそんな荒れないだろ」

きれい好きというほどではないが、急な来客があってもさほど困らない程度の生活はしている。
「いくらローストビーフ、どうだった?」
「うーん、1と1がそのまま1と1って感じだった。足して2にならないっていうか。いくらはいくらで、ローストビーフはローストビーフでおいしいんだけどね」
「だから言ったろ〜?」

勝ち誇ろうとしたところに、
「一人で行ったからかも。二人で行くつもりだったからちょっとつまんないっていうかおいしさ半減みたいな」

思いがけない殺し文句が来てマスクの下の頰が発熱ではなく火照りを持った。
「まあ、だから二人で行ってみないと分かんないよ」

たぶん二人で行っても1と1が1と1のままだと思うが、せっかく行こうと言ってくれているのだからここは乗っかっておく。
「これスポドリね」
「サンキュ、ちょうどほしいと思ってたとこ」

買ってきたばかりでまだ冷たい。せっかくなのですぐにキャップを開ける。クロエは自分の分はミルクティーのペットボトルを持参である。
「あとこれごはんね。まだあったかいからよかったら食べて」

クロエが荷物の陰からひょいと出したのは、——俺の見間違いか? と眉根が怪訝(けげん)になった。
「牛丼。卵つけといた」

クロエはいそいそ持ち帰り容器の蓋を開けてセッティングしてくれたが、肉のビジュアルだけで目に重い。
「紅ショウガもたくさんもらってきたからねー」

吉乃屋(よしのや)の牛丼は具が見えないほど紅ショウガを載せるのがクロエ流。持ち帰りの小袋も大量で一つかみほどもらってきた風情。いそいそ小袋を開けてはかけ開けてはかけ。
「……クロエさんちょっとお待ちになって?」
「何?」

言いつつクロエが紅ショウガを開ける手は止まらない。
「俺、一応まだ病人なんだけど」
「え、だからさ」

クロエは何を言われているのか分からない様子だ。
「風邪牛丼。あたし風邪のとき必ずこれなんだけど」
「必ず!?」
「え、だって牛丼はいつだっておいしいじゃん。そんで紅ショウガはショウガだから風邪にいいし、タマネギもネギの仲間だから風邪にいいでしょ。肉と卵で栄養満点、卵でごはんもつるっと喉通るし、ちょっと豪勢なおじやみたいなもんでしょ。風邪の完全食じゃん?」
「俺の人生では新解釈だなあ、それ!」
「食べないと元気にならないよ?」
「胃腸にスパルタが過ぎるだろ!」

病欠が一日延びてしまう。
「それもうお前が食べろよ。俺、レトルトのお粥あるから」

何も食べないとクロエが気兼ねしそうなので、お粥をレンチンした。風邪が伝染るといけないからと頼任が台所で立って食べようとしたら「病人が立ち食いすんのおかしいでしょ」とクロエが立ち食いを代わってくれた。

お椀に軽く一杯のお粥はクロエが牛丼を完食するより時間がかかり、クロエは合点が行かない様子で台所から頼任が食べ終わるのを眺めていた。


病人だからチューしないよ、と帰って行ったクロエから晩にメッセージが届いた。

まず写真が一枚。

ネギを散らした卵入りのお粥だ。梅干し添えが泣かせる。こういうのが食べたかった。


『風邪牛丼、周りに訊いたらあたしだけだった。ママに作り方教わったから、次はお粥作るね』


どうやら帰ってからすぐ教わったらしい。それも泣かせる。たまに殊勝なことしやがって。


『あたしが食べたがるからいつも買ってきてたけど、普通はこういうのが風邪の王道なんだって言われた。くたくたに煮込んだうどんとか。王道も大事だね』


ジュエリーでは常に獣道を行くクロエだが、こんなことで王道の大切さを分かって頂けるとは。


『王道の良さを分かって頂けて幸いです』
『家であんまり料理しないんだけど上手にできた。もういつでも作れるよ。次いつ風邪引く?』
『待つな。基本的には引きたくない』


でも、


『治ってからでも作りに来てくれるのは大歓迎です』
『治ってからだと物足りなくない?』
『俺のために覚えてくれたお粥なんかいつでも食べたいに決まってるだろ。なおうどんも教えてもらってください』


クロエからは「ばーか」と罵るツンデレネコチャンのスタンプがまずいっこ。続いて、


『うどん了解しました』


と返ってきた。